2015年5月26日火曜日

蚊のアレルギーと認知の思索

こんにちは。

今日も全身がかゆいです。

昔から、「かゆみ」に対する過敏があります。
何かがそっと触れればたまらなくかゆい!(参考記事はこちら

花粉や埃を含む空気が触れるのもかゆいですが、かといって着込んで皮膚の表面温度が上がるとさらにいけません。しかし、皮膚表面以外の体は「寒い」と感じているようです(わたしにはわからないのですが、冷え性なのと、体質的におそらく内臓が冷えている)。

特に夏はひどいです。

それは「蚊」のせい。

大人になるにつれて少し刺される頻度は下がりましたが、それでもひどいです。
脚が、もっともひどく。


「本物の膝、ど〜〜れだ?」


とばかり、はれあがります。
かきむしらなないと
頭が変になりそうで、頭が沸騰して、血管が切れそうに痛くなって「ひ〜〜〜〜っ」となって、のたうちまわる。ひどくかきむしって悪化。
かさぶたはがしの癖もあるので、余計に治りません。
しかも皮膚が弱いので、全部跡にのこっています。
がんばらないと塗り薬も気持ち悪い上に忘れてしまうので、「アットノン」は少し効いたようですが、完全に跡が消える頃にはわたしはおばあさんでしょう。




これです。
思いついたとときにがんばって塗ってます。
少しでも・・・。と思います。
最近は全く思い出せていませんが・・・。

ところが、これが過敏およびアレルギー反応だと気づいたのは最近です。

中学生のときには、キャンプで蚊に刺されて、発熱して早退・アレルギーと言われて薬が出るところまで至っているのに、「がまんがたりない」と思っていました。

就職1年目には、「かゆみが出てからじゃないと飲み薬はもらえない」と医者に言われただけで「ひ〜〜〜〜っ」となってパニックになってしまい、それが原因で心療内科に紹介されているにもかかわらず(当時はわたしも「心療内科・精神科=心の問題」、つまり、わたしは心が弱いのか、と思ってしまいましたし、お医者さんも単に「心の問題」と捉えていた節があります)。

びっくりです。
がまんがたりないわけじゃなかったわけです。
たぶん、ここで「自己モニタリング機能」「苦痛に対する過剰な鈍磨」「人に言われたことの受け止め方」「自他区分機能」のどれかが正常に発達していれば、もう少し違うのだと思います。
いま、「診断」というものを受けて、「これらを発達させる必要」「発達しないなら別の回路で補う必要(わたしは知的に高く外部支援がない分、この「内部支援」ができます)」を自覚したことで、上記が判明し、対策の立てようが出てきました。よかったです。



「オーバだなぁ、がまんしたらすぐ治る!みんなそんなもんだ!」と言われ続けて。
それでもやっぱりわたしはいくつになっても幼い子のように感覚パニックで泣いてしまって。


自分の感覚と、「みんな」の感覚は同じではありません。
同じに見えるのは、いまの世の中で生きるにおいて言うなら、運がいい、のです。

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これは、定型発達だとか、凸凹があるとか、関係ありません。
みんな同じなんて抽象化した言葉で言いたくなるのは、その方が情報量が少ないからです。自動でしていることなので仕方がないですが、ある意味怠慢なんです。
わたしもその方が脳の一部の「みんなと話すわたし」を操作するのは楽です。
でも、それ以外の部分は、脳が沸騰して「うわー」ってなります。
脳のほとんどが「みんなと話すわたし」である人の場合は、反対のことが起こってるのかもしれません。

何かを認識するってすごく難しいです。
その比較的やりやすい・共通だと思いやすいものが「言葉」「数字」「芸術」なのだろうと思います。
それでも不完全だし、著しく偏ってしまうこともあります。だって「共通だと思いやすい」のだから、そういうリスクがそれ自体に備わってる。でも、そういう方法でしかできないですね。
不安で不安でなんともならないようになってしまうけど、それでも、でもやっぱりずるできないのです。
だからやっぱりちゃんといろんなことを見極められるようにしてたいです。
いっぱい矛盾があるけど。認識をさぼることはできないです。

こんなことばっかり考えてたら疲れるよなあと、時々わたしの一部が言ってます。
でも、こういうことを考えずに生きてるのは、意味わからないなんです。
いろんな人がいるし、一人の人間の中にもいろんな人がいるんです。

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さて、夏だから、きれいな緑色の生地を手にいれました。
今日はそれをきれいにします。

水にさわれると気持ちいいので、いいです。








2015年5月23日土曜日

映画は便利

さて、金曜ロードショーでまたまたハリーポッター祭りが始まりましたね。


でも、もう私は本も映画も全て飽きるほど観ているので、別に見逃してもいいです。
ただし、絶対に「録画」を忘れないように、気付いた時に予約します。

これは、ハリーポッター以外の映画でも同じで、気付いたときに、まだHDDに録画のストックがない、映画がやるようだったら、録画しておきます。

それは、どうしてかというと、「ちょうどいい休憩付き2時間タイマー」になるからです。

私は今ほとんどテレビは見ませんが、そのために(置く場所がそこしかないというのもありますが)、作業部屋にテレビがあります。
思い立ったら使うという感じですが、ほとんど内容が頭に入っている、なんども見た映画や動物特集をタイマーがわりにすると都合がよいです。


・内容が頭に入っているので、集中しすぎることもなく、安心してつけっぱなしで放置できます。
・ストーリーになっている・しかも知っているので、ふつうのテレビのようにうるさくないです。
・展開に合わせたBGMで、なんとなく時間の流れを把握できます。もちろん集中するとそれらも聞こえなくなりますが、ふと疲れを意識したときに、どこからでもぼーっと見られるので、少しは役に立っていると思っています。
・2時間ぐらいで録画が切れるので、そのタイミングで静かになり、気になってTVの方に行くので、体を動かせます(気づかないことも無視することもありますが)。
・集中が完全でないときは、CMのタイミングで一緒に力を抜けたりします。
・音楽と違って、覚えて延々と歌い続けてしまったり、聞き入ったりしないです(音楽は、これをやってしまうので、BGMというのがあんまりうまく使えないです)。


わたしは気に入った(?)映画などは延々と繰り返し観ます。
最近では、ふと録画した「メン・イン・ブラック」を、1ヶ月半〜ぐらい延々観ていました。
そういうことをするので、前述のような「内容が完璧」な映像がたくさんあります。映画や場面によっては、アテレコできるくらいになっています。
主に、ジブリ映画がそれにあたるのですが、最近は、HDDのストックに飽きてきて足りず、ハリーポッターをありがたく録画しようという次第です(ハリーポッターシリーズの録画も一部はあるのですが全てではないので、歯抜けの部分を)。

それから、わたしは小さい頃からシャドウイングが好きです。軽い趣味と言ってもいいかもしれません。
ディクテーションや意味の理解を伴う場合には少し体力を使うのですが、体じゅうをからっぽにして、音を通すだけなら、気持ちがいいほうが勝ります。意味が入ってくるところもありますが、とにかくシャドウイングが好きです。
ですから、洋画を録画できるとより便利です。
原語で観ているので、気がむいたときにシャドウイングできます。
これに関しては、エコラリアに近いものがあるかもしれません。
ちなみに、どの原語でもできます。母が観ている韓国語の映画でもやっています(たまにうっとおしいと言われて、いる部屋を変えて聞かないようにします。)。
これをやると、ちょっと気分転換になるし、口の運動になるので、いいです。




時間管理をきっちりやりすぎても、どのみち過集中してしまえばお手上げです。また、時間管理しすぎると、かえって「あと5分で休憩しなきゃ・・・」「休憩時間じゃないからまだやらなきゃ・・・あ、失敗、あ、なんか疲れてるかな、でもまだやらなきゃ」などと変にプレッシャになったりします。
必要な場合はありますが、時間が読めない作業やものづくりでは、意味がないので、上記のようにするのがわたしには合っています。

これと、スケジュール・ふせんを必要に応じて、思いついたら使っています。
あくまで、「思いついたら」「できたら」なので、失敗もありますが、現状はおおむねよいです。
最近工夫したいのは「やり始めに難がある」ことかな、と思っています。うまく工夫できるといいです。

2015年5月18日月曜日

ジャーゴン・エコラリア・地球語

わたしにはこれらすべての表現があります。

それはおもしろいけど不便です。

だって英語で表現するのと日本語で表現するのじゃ、たとえちゃんと翻訳しても、違う!と思うでしょう。

それ以上に隔たりのある世界の表現を行き来するのは大変です。
でもそれによってかんがえごとはたくさんにはかどります。

いちばん不便なのは地球語(そのうち・日本語を使用。)です。
けれど、伝わる・心地よく生きるために学習すべきなのは地球語です。
だから地球語を使ってます。

それだけでは足りないので、エコラリアしたりジャーゴンして口と頭をあやしながら生きます。
エコラリアやジャーゴンには意味があります。

参考になる記事は
カレイドスコープ
ひととひととのコミュニケーションとは

です。とてもよくわたしのあたまのなかをうつしとった言葉たちでとてもすみやかにきれいです。

でも、実際の所エコラリアやジャーゴンの本当の細かい部分の意味(ジャーゴンに至ってはすべて)、この地球に存在するわたしを通してでてくるにも関わらず、わたしにもわかりません。意味わからないんだけどなしでいられません。ふしぎです。

地球語しかわからないのにどうやら体に詰め込まれたわたしの思考は地球 語を使っていません。
地球語を使ってるかもしれません。それもわかりません。

だから、感想や解釈は違えどそこに存在することそのものは直観で疑うことのできない、見てわかるものは安心です。
もちろん、その認知の仕方もそれぞれに違うので、それにつけてもぞっとしないわけですが。それに気がついたのは6歳の3月ごろです。ぞっとして気持ちが悪くなって怒られるまでひとの認知に関することを質問し続けました。答えは得られませんでした。不思議です。みんなそれぞれ体の中に思考が存在していて、それらがぶつからずに自動でスッ、スッ、とまじわるように、やわらかに交遊しているさまは。

2015年5月13日水曜日

タスクが多いと混乱する!


そんな時に有効かな?と思います。

今の私の場合、

「車で移動して、銀行に行く。銀行はUFJ。窓口でちょっとそうだんをして、ついでに市役所にいけたらいいな。ああガソリンがない。ガソリンをいれなきゃ。いつ入れようかあ。安いのはあそこ。でもとちゅうでなくなったら困るなあ。お昼になるのはいつごろだろう?家に帰れるかな?うーん。ああ。窓口ってどこならあったっけ。でももしかして印鑑がいるかも。でも本当はいらないかも。どうしよう。ああ、あの文書も処理したい。電話がかかってきてる、誰だろう。誰か調べてから出なきゃ怖い。ああ、えっと、まずは車で・・・」

と、この程度でもめちゃくちゃ頭が大変なことになってしまうので、メモをしながらやったりします。

なので、上記のように「仕事で大事なものをたくさん扱って、人にかかわって調整しながら複数のことをこなす」のはものすごく体力を消耗します。

ひとつのことをやっているように見えて、実はその「ひとつのこと」にはいろんな力が要求されているんだなあと思います。
しかも、タスクにはじつは「不確定要素」がいっぱい。それをひとつひとつ潰すのなんて誰にもできないけれど、そこがメモリを食います。
うまくこなす工夫をしていきたいです。


2015年5月11日月曜日

WAISってどう生かす?


私は、1年ほど前にWAIS-Ⅲを受けています。
これはふと思い立ってその所見を写真にとって余白を作り、自分で書き込みしたものです。ものすごく役に立つわけではありませんが、ちょっとおもしろいです。
また私はこの用紙以外に、もう一枚、文章の所見(検査態度や、その他の心理検査を含めたもの)をもらっています。それにも書き込みをしています。そっちは、「ふーん。と思った。」ばかりですが・・・。
わりと値段が高くて痛手だったのですが、こういう検査みたいなものは面白いので好きです。


この後、「これをもとにしたカウンセリング」を受けてみたのですが、どこがこれをもとにしてるのか、方向性・ゴールやカウンセリングと医療とのつながり、システムがまったくつかめず、確認しても確認しても「あなたはどうですか?」「どうしたいですか?」といった、全く意図の読めない、雲をつかむような答えしかかえってこないため、意味がわからないので困ってしまい、カウンセリングは中止しました。
おそらく、いわゆる「傾聴」を主とした「共感的に、言いたいことを吐き出してもらう」方法だったこと、わたしが自分の特性をうまくつたえられなかったことで齟齬があったのだと思います。カウンセリングってそういうものですから、しかたないですね。

ただ、カウンセリングを受けてみたことで、自分が客観的にみると「人間関係に困って」いて、「コミュニケーションに難あり」「目を見たり、相手のしぐさから読み取ることをせず、言葉ありき」「言葉は流暢だが、本当に理解してるか疑問」にみえることがわかりました。

最終的に意味がわからないことによるパニックで幕を閉じ、カウンセリングは失敗で、合わなかったように見える結果ですが、こうやって落ち着いて書き出してみると、実は「自分を知る・分析する」目的はある程度達成差されており、成功だったのかも・・・?と今新たに思い直しました。困り事がわからない特性を持っているので、やっぱりこういう外部からの評価は必要なのかもしれませんね。

しかし当時は「結局WAISを元にして何かしたりしてない・・・」と困っていたことに最近気づいて、ふと書いてみました。
やっぱり「話す」ことより「書く」こと、視覚的に見て確認して安心したいという癖があるみたいです。

IQの高く出た部分と、低く出た部分で、

・「例えばこんなエピソードがあったな」といった象徴的な出来事
・それによってできやすいことと苦手なこと
・関連する感覚
・ちょっとした感想
・ここには出ない関連した特性と思われること

の、思いつくこと書きました。
それから、特に困ることに関しては「困らないためにどうするか」を今わかるだけ書きました(完璧に全部書こうとしないこと)。
私の場合、大して手助けがいらないタイプなので、サポートブックみたいなものはあまりいらないのです。そして、そういうものは、やはり子ども用・知的障害を合併している・ないしは自閉度の高い人を主に対象としているつくりなので、私には向きません。自分でどうにかする方策をたてます。しかもそれができるので、それがいいのでしょう。
また、すでに成人しているため、何らかの二次障害等で特性が強く出ている場合などを除き、基礎的なスペックが上がることはあまり期待できない(「特性」と言われていても、実は根本原因を取り除けば改善する部分もあると思っていますし、また自閉症スペクトラムの研究が完成しているわけでもないのでどこが基礎のなのかはわかりませんが、本当に基本的な部分)ので、この状態でそこそこやっていく方策を立てます。

書き出してみると、「言語理解はやたら高いのに、人とのかかわりにおける文脈が読めない」のがぼやーっと浮かんできて、なるほどと思います。

そして、今まではあまり自覚していなかったものの、最近昔の友人と会って、いかに自分の言動がぎこちないかを実感した次第です。とてもびっくりしました。
しかも、今までそれに全然気が付かなかったのがおもしろいです。
それでもそこそこ私を受け入れてくれるので、みんな優しいんだなあと思います。


それから問題ないような書かれ方をしている部分の所見について、本当はそれって日常では困ることが多い所かも!とか、実はその時困ってたかも・・・という部分についても、自分で書き込みをするので、すっきり?します。もちろんそれが特性なのか性格なのか、わかりませんが、周りとの齟齬によるストレスが多い性質のようなので、自分が自分のことをわかってあげるようにしました。

例)
・「まじめにきちんと、非常に集中して検査を受けていた」
→「それは、やるべきことがわかっているから。むしろ、それしかできないのは問題。困ってもとにかく言われたことややるべきだと感じたことを強引にやろうとしてパニックになったり、バーンアウトしないと止まれない。適切なブレーキが必要。休憩の練習を。」



発達障害の本を読んでも、「100%あてはまるわけではないから、私はやっぱり努力が・・・」などとうじうじしてしまうような部分があるので、こうやって本や検査は自分のエピソードを書き込むと結構利用しやすい時もあります。
結局こだわっているなら、書き出してすっきりしてしまったほうがいいかとおもいます。げんに、今まさに割りと「しょーもな!」と思いながら書いています。

でも時々新しい発見があることや、自分のことだけでなく、人間全般の認知のシステムにまで思いを馳せたりして、楽しい考え事ができることもあります。

すぐに使えることではありませんが、こうやって書き出すことで、必要なときに必要なことができればいいなあと思います。
そのうち私は、こういう分析が必要なくなるのだろうけど、今はこういうことをするのが面白いです。

子どもだと、WISCで、療育の方向性を決めたりしますが、他の成人の方はこういう検査をどうしてるのか、あまり出てこないので、気になります。診断に使うために受けているからでしょうか。




2015年5月1日金曜日

ルールがわからない


これって、ASはあまり関係ないと思いますが、ちょっと気になったので記事にしてみました。イラストの載せ方も模索しつつ・・・。

普通の授業では、「やりかたを見つけるないしは教えてもらって」から、「やってみる」、んですよね。
しかも、教科書があって、「ここまでできればいいよ」というのがわかったから、わたしはあまり問題なくこなせました。もちろん躓く子もいて、問題もいろいろあるのでしょうけれど。

それに対して、芸術・体育・また詩の授業なんていうのは、いいとこ、お手本を一瞬見て、注意事項を聞くぐらいでしょうか。

やり方が全然分からなくて困ってしまいました。
きらいじゃないのに、授業は大嫌い。
そんなふうだったものたちです。

やりかたはなくて、自分でやるんだ!っていうのが、もちろん、芸術関係、なのでしょうけど。それはとてもよくわかるのです。
わたしも、はまった木工作品なんかは、家に持ち帰って、学校では使えないニスを塗ったりしていました。

けれども、やっぱり、そういうことができるのって、無意識に基礎の積み重ねがある子に限られると思います。
やり方の『型』がまずあって、まねっこして、それから覚えていく、徐々にやりたいことが出てくる、こともあると思います。
成績をつけたり、みんなで同じように達成する課題の場合は、ある程度そういう方法があるといいなあと思います。
なんとなくでは、わからないことがいっぱいあるので、そういう基礎を学んだら、いろんなことが楽しめたり、ソコソコできるようになる子がいるかも?

今は、気になればルールを調べることもできるし、集団行動で失敗して怒られても、自分の問題と他人の問題を多少分けて考えられるようになり、運動も芸術も楽しいです。相変わらず野球やサッカーなどのルールも、選手も、全くわかりませんが、わからないなりに、臨場感みたいなものはどきどきするので、試合を見ても、面白いと思ったりしますよ。色んな楽しみ方があるので、そういう人も実はいるのです。
選手の話やルールの話で盛り上がる人に水を差したくはないので、なんだか申し訳ない気持ちになることもありますが、ぼんやりとその辺で楽しんで居られれば、私は満足です。ぼんやりしててごめんね。私が話に入れなくても、気にしないでね。って思ってます。